私は、今年久しぶりにこのNHK大河 ”龍馬伝”にはまっておりました。

龍馬は、大政奉還をなしとげ、さてこれから、と言うときに、中岡慎太郎とともに、死角に襲撃されて、若い命を散らせます。最終回はなんと痛々しかったことか。
もちろん、うるるっとなってしまいました。
日本の歴史は、きわめて優秀なひとかけらの人間が、自分を捨てて行動したことによって植民地にもならずにすんだのだ、ということがよく理解できました。(最近アメリカの植民地では?と思わないでもないけど)。
自分のためだけの人生というのは、実は冒涜(ぼうとく)なのではなかろうか、この頃の志士の雄志にふれると、現代人の、個人主義的な発想が、実は正しくないのだ、と思わずにはいられません。
うちの若いスタッフはあんまり見ていないようでしたが、こういう歴史を知らないで、現代をぬくぬくと生きるのは一つの罪ではなかと思ってしまいます。
さて、しかし、この龍馬伝、今までの大河ドラマと決定的に異なる点があります。その1点において、絶対的に視聴者をひきつける違いがあるのです。秀吉をやっても、家康をやっても、龍馬に絶対に及ばない点。それは、人生の頂点で、いきなり彼のドラマが終わるという点なのです。まるでモルフォ蝶が、美しいままで標本になるように、彼の人生は永遠に色あせることがありません。
いつもの大河ドラマなら、秋口くらいになると、どんな抱腹絶倒の成功物語でも、そろそろ、勢いにかげりが出はじめ、頂点についた人間特有の、保身とか、狡猾さとか、あんまり見たくない展開が待っています。おまけに、ヒーローのメイクにしわが入るは、かつらに白髪が交じるわ。やれやれ、歴史に ”if”はないように、奇想天外な進展もありません。そこから学び取るのは、盛者必衰の法則ばかりなり。
その点、龍馬伝は、ぶつっと、すごい音をたてるような最終回です。もう泣くしかないし。福山だって、しわも、白髪もありません。
これは、日本におけるジェームスディーンなのでしょう。
ジェームスディーンも、愛車のポルシェで撮影所に向かうところを、運命の自動車事故が待ちかまえていて、ポルシェとともに伝説になりました。なんとも悲しいけれど、かっこいい・・・(ポルシェの写真がほしかったね。)
龍馬に扮する福山雅治も、長崎から出てきた頃の、かっこいいけどちょっと お軽めのお兄さんから、押しも押されぬ役者魂を印象づけて、NHK大河の歴史に残るでしょうね。
さて、龍馬伝のおかげで、これからは、上り坂の頂点で、12月の最終回を迎えるという大河ドラマの定番ができそうです。別に人生の終わりまでを描かなくてもよかったんじゃないか、ってNHKも気づいたはずです。
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